11.4.22

演奏会「クリスチャン・ウォルフの音楽 〜システムを変える〜」に寄せて

20211228日、福岡はアクロス福岡にあるアクロス円形ホールで行われたコンサート、「クリスチャン・ウォルフの音楽 ~システムを変える~」(河合拓始 企画・構成)を聴きに、会場へと赴いた。日本において、ウォルフの作品が取り上げられる演奏会は数少ない。しかもテーマ作曲家として全面的に取り上げられるのはかなり珍しいことである。告知を目にし、すぐに見に行くことを決めた。

 

・・・冬の日はつややかな紙をめくることからはじまりやがてなつかしくやさしい音楽につつまれることはなくてもその頁を閉じべつのごわごわした厚紙に書きうつすゆれる輪郭ふるえる輪郭ではないではなにを/なにをととわれるものではないものを/なにをとだけやがてうちかえされる冬の日/・・・(朝吹亮二『密室論』七月堂、2017年、9-10頁)

 

プログラムは、ピアノソロ、器楽デュオ、器楽トリオ、ピアノ四手連弾、8人編成による大きめと言っていいであろう室内楽編成――「室内楽」というクラシカルな語彙が適当かどうか考えなくてはならないが、取り急ぎの言葉として――というバラエティに富んだ選曲であった。

 

ウォルフのアンサンブル音楽は、時代によって記譜方法は異なれど、「互いに聴き合う」ことに主眼がある。この日のコンサートでも、演奏に参加していた奏者たちがお互いの音に耳を澄ましあい、音を「出し合う」姿が強い印象として残った。プログラムノートを見ると、奏者のバックグラウンドは多様であり、各奏者の音楽ジャンルも様々であった。当然、奏者個々人の佇まいもそれぞれに独立し、「グループ」としてのきっちりとした統一感を見せるというよりも、個々人が個々人としてごく自然に立っている、そのような印象を受けた。

 

なにごとかを言い表そうとして唇をほんの少しだけ開いてためらっているとき、未知の何かが到来するようにしてそこに不意に言葉が訪れてくるという経験が、われわれにはいくらもあるはずだ。(松浦寿輝『口唇論』青土社、1997年、120頁)

 

そしてこの日強く印象に残ったのは、互いに聴き合う奏者の姿だけではなく、ウォルフの音楽のもつ、チャーミングさであった。いや、書き直そう。それは「ウォルフの」チャーミングな音楽であり、「奏者たちの」チャーミングな音楽でもあった。不思議な仕方で聴き手のもとにやってくる魅力は、どこに由来するのかと考えていた。

 

今回の演奏会では、「歌」を素材とする1970年代の作品が取り上げられており、ウォルフ作品の演奏の前に、元となったその素材の歌を演奏するというユニークな試みがあった。例えば《エクササイズ第15番 “ユニオン・メイド》(1975)はケリー・ミルズの既製曲を元にした作品であるが、さらにその曲自体はロベルト・シューマンの《楽しき農夫》を元にしている、という具合に。

 

橋の上に風は止まる葉が落ちる見知らぬ橋

見知らぬ

ではなく、いちど通ったことのある橋かも知れない消尽点かも知れないしかし執着ではない(朝吹亮二『ホロウボディ』思潮社、2019年「陽が落ちる」より72頁)

 

そしてそうしたウォルフの1970年代以降の作品は、楽器演奏の経験を問わないようなものが多い。しばしば音部記号の選択も自由であり(ただし、一旦選択した音部記号は最後まで維持したまま読譜しなければならない)、厳密に音を合わせる必要もない。

 

「途上の歌」。ウォルフの楽譜から立ち現れる「途上の歌」とはなんなのか。歌を素材にすれば当然そのような結果になるであろう、と考えがちであるが、実はそのような単純な話でもない気がする。「途上の歌」、始まったけれども完結することのない歌。音楽は常に途上のままである。例えるならば、地図を眺めて俯瞰的に目的地へと向かうのではなく、Googleマップのような地図アプリを使って、自らの進む道筋だけを明確にして歩き進んでいる時の感覚に似ている。

 

ステロタイプ化された言葉のルーチン性の裏をかくような場所と時刻に、思いがけない言葉が不意にどこかからやって来て、背景の〈地〉としてある文脈そのものにある変容なりずれゆきなりをもたらすということがたしかにあるのだ。(松浦寿輝『口唇論』青土社、1997年、121頁)

 

「フレーズ」という語がある。我々の日常において、かつ時に言語運用に関連して用いられる語であるが、音楽において非常に重要なものとなる。たとえば「ド」と「レ」と「ミ」という3つの音を、それぞれポツンポツンと独立して発するならば、単にそれは音のカタログのようにしか聞こえないであろう。しかしながら「ド」から「レ」を通過し、「ミ」に至るまで、動的な潜勢を持って演奏するならば、聞く人はそこに「フレーズ」を感じ、人によっては「カエルの歌」の冒頭部分と捉えることだろう。

あるいはよりクラシカルな音楽で考えてみよう。Fマイナーのコードを構成する3つの音(F, A flat, C )の鍵盤を適当なランダムさで叩くならば、人はそこに「Fマイナーコードの構成音を説明する例示としての音」を聞き出すであろう。しかしながら、ある音楽的意図とフレーズ感をもってそれらの構成音を奏すると、ベートーヴェンのピアノソナタ第1番冒頭の旋律が聞こえてくる。

 

つまり「フレーズ」とは、あるいは「フレーズ感」を持って音を奏するとは、楽譜上には現れないある動的な音の性質を身体を通じて具現化することであり、それはある音をまた別の音との関連性において捉え、生成することである。音の背後にある身体は、複数の音をフレーズにつむぎあげるために、音と音との間で架橋しようとする。連続性のうちに実現される身振りによって、フレーズは実現される。

そして、フレーズは通常、始まってから終わるまで一続きのものであり、完結することを余儀なくされる。フレーズとはその都度の目標地点を目指すものだからだ。


身振りとは、ある手段性をさらしだすということであり、手段としての手段を目に見えるものにするということである。身振りは、人間の、〈間にあること〉をあらわにし、人間に倫理的次元を開く。(ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に 政治哲学ノート』以文社、2000年「身振りについての覚書」より64頁)

この日演奏された多くの作品において実現されていた音は、個々の奏者が個別に奏するものでありながら、常に他の音との関係性のもとに置かれ、かつ完全なフレーズをなかなか実現しないように思われた。手渡された音は、自らの手から他者の手へと手渡される。自己から他者へ向かう音の動線はつながっては行くが、時にふと途切れ、またつながり、終わることはないものの演奏時間の終わりに向けて様々に維持される。音は止むことはない。フレーズは完全に途絶えることはない。しかしながらどこから来てどこへ向かうのかわからない。それは決して非連続ではないが、かといって完璧な連続ではない。常に不完全な連続、不完全な歌の不完全な受け渡し。


変幻する幾筋もの声が

すべての速度で飛翔し、散乱してゆく

(朝吹亮二『朝吹亮二詩集 現代詩文庫102』思潮社、1992年「雪道を閉ざす」より47頁)

 

直接的に歌を素材としていない《システムを変える》(1972-73)についても、「途上の歌」という言葉はわたしについてまとった。確かに、インストラクションの中で楽器指定について「幾つかの楽器はメロディーで」という指示があり、「フレーズ」という言葉が「連続した音のシークエンス」という説明で用いられている。しかし音の繋がりは必ずしも完結した歌へ結実するわけではない。

 

この日《システムを変える》の演奏に関わった奏者は、プログラムノートを見ると、いわゆるクラシカルな音楽教育を大学や海外の音楽院で受けた方もいれば、人文学の研究者として活動しつつ演奏する方、ポピュラー音楽の演奏に携わる方もいるなど、先述したように多様な出自を持つ。彼らはそれぞれの領域でそれぞれの探究を行いながら、なおかつ開かれ、他者へとつながろうとしている。そのつながり方は、同じような身振りで同じ質の音を出すということではなく、各人の仕方で各人の音を出すこと、しかしながらひとりひとりが勝手気ままに音を出すのではなく、あくまで「相手を聴き合いながら」音をだし、つながり合うこと、という仕方である。ウォルフの楽譜から理念的には理解できていたことが、実際に音となって会場空間に立ち上がり響きとなって充満していたのを目の当たりにした時、新鮮な悦びに包まれた。

 

他者に繋がろうとする姿は、音の響きの質からも感じられたように思う。ウォルフの音楽は、決してわかりやすい、それと聞いてすぐわかるような「親しみやすい」旋律を使っているわけではない。ただ音を手渡してゆく、といってもいいかもしれない。同じ空間に立ち、互いの存在を認めながら音を手渡すこと。手渡され、手渡すという行為を繰り返すことにより、音にはそれと知らぬ接触の跡が、手指のさわった跡が残され堆積してゆくことだろう。その堆積は、まだ見ぬ「歌」を導き出そうとする音を繋げようと試み続ける。

 

・・・しかしたしかな冬の日/紙片に挿入する/ない/ということばは/ない/という音はけっして閉じることはなく響きいやふるえいや響きもふるえもせず意味ももたずかたちもなくつながるシンタクスもなくきらびやかなイメージもなくこごえいやこごえるぼくをあたたかくつつみこむいやあたたかくぼくの血をぬくいやあたたかくぼくの人をぼくの人という脳のふるえを/・・・(朝吹亮二『密室論』七月堂、2017年、12頁)

 

 

 

演奏会内容の記述については、当日配布されたパンフレットを参照している。