23.6.20

バッハを弾くこと

「曲に入り込む」というだけでは説明がつかないような、不思議な経験をしたことがある。 

初めてバッハの「インベンション」を弾いたのは、7〜8歳ごろだった。あるいはそれよりも前、子供向けに簡単にアレンジされたバッハの作品を弾いていたかもしれない。当時特段の感銘を受けたかどうかは覚えていない。それよりも、その後シンフォニアに進んだ時に覚えた違和感の方が強く印象に残る、9歳だったか。2声部から3声部になり、「右手」と「左手」だけではなくそれぞれの手を超えるような声部が現れたときの、とんでもない違和感。一つの手が複数の声部を担当し、複数の手が真ん中の声部において綱渡りをする。「第3の手」が自分の中に現れようとするかのような、こんな音楽があるのかと驚いた。まるで新しい言語を一つ学ぶようなものだった。

やがて4声部の独奏曲を弾くようになった時、不思議なことが起こった。頭の中に4つの動くスクリーンのような、トラックのようなものが立ち上がり、それぞれのなかで個々の声部が蠢いているのであった。声部は確かに連関し合っているのに、互いに独立もしている。今であれば、「同時に4つのPCモニターを見ながら4つのPCを関連させつつ独立させつつ動かしている感じ」とでも表現するかもしれない。4つの空間がぐいーっと立ち上がってくる。なぜバッハなのか、他の多声音楽の作曲家ではだめなのかも、いまだに説明がつかない。 

「不意に時間の秩序から外れてなにか貴重なものを生き直す経験、「時間の外にある喜び」に満たされる経験は最も固有な、特異な出来事を宿している経験であり、自分がどうしてもそれを証言したいと惹き寄せられる経験である。」(湯浅博雄『応答する呼びかけ』)

 残念ながら、というべきなのか、あるいは必然的というべきか、そのような体験はこれまで2〜3度しか経験したことがない。しかしながら今でもバッハを弾くのが好きなのは、単に好きな作曲家だからという理由の他に、その時の不思議な経験に再び遭遇することを求めているからなのかもしれない。